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日本の歴史 ― かつて西洋に渡ったサムライ達の興味深いエピソード5話

西洋人が日本に上陸したのは1543年。ポルトガル人が鹿児島県の種子島に上陸したのが初めてだと言われています。当時大航海時代を迎えていた西洋は世界中に進出し、その勢力圏を拡大し続けていました。その後、商人や宣教師を中心とした数多くの西洋人が日本へ再訪し、日本の歴史や文化に大きな影響を与えていきました。

しかしその反面、当時日本の侍達も西洋を訪れていた事実をご存知でしょうか。今回は、その中から5つの実話をご紹介しましょう。

 

天正遣欧少年使節

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「天正遣欧少年使節」は、1582年に九州のキリシタン大名達によって、日本におけるキリスト教の布教の促進を目的として送られた使節です。

使節団のメンバーである4人の少年、伊東マンショ、千々和ミゲル、原マルティノ、中浦ジュリアンは、それぞれキリシタン大名たちの代理として西洋を訪れました。キリシタン大名とは、キリスト教に改宗した大名を意味します。

当時、九州を中心に多くの大名がキリスト教を受け入れ、熱心な布教活動を行っていました。この使節団は、その中でも有力な大名であった大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らによって結成されています。使節団は、スペインで当時のスペイン国王フェリペ2世、そしてローマでローマ教皇グレゴリウス13世及びその後任のシクストゥス5世に謁見することができました。

残念ながら、日本では豊臣秀吉の伴天連追放令や江戸幕府による鎖国令によってキリスト教は禁止され、帰国した帰国団の多くは非業の死を遂げましたが、彼らやキリシタン大名達の尽力もあって、九州ではキリスト教の信仰の火が現代まで根強く残り続けています。

 

慶長遣欧使節

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「慶長遣欧使節」は、1613年に東北の覇者・伊達政宗によって西洋に派遣された使節です。家臣の支倉常長を筆頭に欧州を巡り、スペイン国王フェリペ3世とローマ教皇パウルス5世に謁見しました。

この使節団の目的は、当時成立して間もない江戸幕府を倒して伊達政宗が天下を握るため、西洋の強国の支援を受けることだったとも言われています。伊達政宗と言えば、彼の鎧姿がジョージ・ルーカスのインスピレーションを刺激し、ダース・ベイダーの漆黒の甲冑のモデルとなったことでも有名でしょう。

また、この使節団がスペインのセビージャ近郊の町コリア・デル・リオに滞在していた際、一部の団員がそのまま現地に残り、今でもその子孫が数百人、ハポン(スペイン語で日本)という姓を名乗っていることでも知られています。

この使節団が派遣されてしばらくたった1633年に日本が鎖国をし、数百年に渡り西洋との繋がりがほとんど断絶されていた間にも、侍の血統はスペインの地で息づいていたのです。

 

万延元年遣米使節

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「万延元年遣米使節」は、1860年に日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカ合衆国に派遣された江戸幕府の使節団です。

ワシントンにて15代大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見し、批准書の交換をしたのを筆頭にアメリカの各都市を来訪しました。ニューヨークではブロードウェイで大規模なパレードを行うなど、日本とアメリカ合衆国の友好を樹立する一大イベントとなったと当時の新聞で報じられています。

護衛艦として派遣された咸臨丸には、明治維新の際に江戸城無血開城を実現し、後に近代的な海軍の設立や開拓に尽力した勝海舟や、慶應義塾大学の創設者にして日本西洋化の第一人者、一万円札の肖像でも有名な教育者となった福沢諭吉が乗船していました。

彼らはこの際に、産業革命を経たアメリカ合衆国と日本の技術的格差に大きなショックを受けたとされています。この経験は、後の明治政府の洋化政策にも大きな影響を与えたと言えるでしょう。

 

池田使節団

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「池田使節団」は、朝廷から攘夷の勅命を受けた江戸幕府が、当時海外諸国に向けて開港していた横浜の鎖港を求めて交渉を行うため、1864年にヨーロッパに派遣した使節団です。

しかし、1863年及び1864年の長州藩と欧米4か国(イギリス、オランダ、フランス、アメリカ)の武力衝突(下関事件)や、薩摩藩士によるイギリス人の殺害事件(生麦事件)、それに起因する薩摩藩とイギリスの武力衝突(薩英戦争)など、欧米諸国との関係悪化が顕著であったため、結果として交渉はまとまりませんでした。

成果の薄かったこの使節団を有名にしたのは、欧州に向かう途上のエジプトで彼らが撮影した一枚の写真でした。多くの侍達がスフィンクスの前で記念撮影をしているこの写真は、まるで合成であるかのようにさえ感じてしまうほどのインパクトがあると言えるでしょう。

 

第二回パリ万国博覧会

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Photo by flickr

1867年に開催されたパリ万国博覧会は、日本が初めて参加した万国博覧会です。とはいえ、日本として統一して参加したわけではなく、江戸幕府、及び九州の大名である薩摩藩、佐賀藩がそれぞれで参加していました。

翌年には両藩が中心的役割を果たした討幕戦争である戊辰戦争が勃発しており、両陣営が西欧諸国の支援を受けるためのアピールの場としても、この万博への出展は、国の行く末を占う戦争の前哨戦のような意味を持っていたといえるでしょう。

これらの出展はヨーロッパにおける日本文化のブーム、いわゆるジャポニズムが勃発する契機となりました。クロード・モネの「ラ・ジャポネーズ」、エドゥアール・マネの「エミール・ゾラの肖像」などは特に有名です。

また、江戸幕府が派遣し、日本の風俗を紹介した3人の芸者おさと、おかね、おすみは大評判となり、今に続く「ゲイシャ」の世界的人気の魁となったと言われています。

 

日本、そして侍と西洋との交流の歴史をご理解いただけたでしょうか。今回ご紹介した以外にも、多くの侍が使節の一員や留学生などの立場で欧米の地を踏んでいます。想像よりも遥かに多くの侍達が西洋に渡っていたのです。

彼らの目に、異国の地はどう映ったのでしょうか。かつての侍達に思いを馳せ、歴史のロマンを感じてみて下さい。そして、侍は決して、時間的にも距離的にも遠い世界の果てにいる存在ではありません。皆さんの住む町にも侍の足跡があるかもしれませんね。ぜひ探してみてください。

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Keisuke

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I am a Japanese male whose reasons to live are studying Japanese history and watching sports. I currently live outside of Japan, but would like to share the realizations I have had about Japan from spending my days living outside of the country.

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